前
私は目を覚ました瞬間、今の時刻が夜中の三時二十二分だと知っていた。直感や勘といったものではない。右手を開けば右手を開くのと同じように、自分と結果の間に当たり前が介在しているかのごとく、知っていたのだ。翼がない人間には翼の動かし方はわからない。私には今、時間がわかる。どうしてかはわからない。
確かめるように時計を見ると、案の定、長針と短針が歪な「く」の字を作っていた。寸分違わぬ三時二十二分。いくら幼少期から寝る時間だけは規則正しいと褒められ、体内時計の正確さだけが取り柄の私といえど、電波時計ほどではない。ここまでの正しさはもはや超能力じみているし、色々言いたくなる。とりあえず、超能力ならもう少しマシなものを選べ私の身体よ。
というわけで、間違いなく何かがおかしいのだけれど、なぜかあまりおかしいって思わなかった。むしろ納得してしまっていた。まあ、そういうこともあるかなと、まるでいく先々の信号が青になるくらいの、たまにある幸運程度にしか思えなかった。どうしてだろうと考えた私は、おそらくこれは動物の本能というやつだろうと結論づけた。何て言うんだろ、たとえ目の前に狼がいようと横にライオンがいればそっちを見るみたいな。取捨選択の本能。より巨大なほうに注意が向いてしまうみたいなやつ的なあれだ。鍵盤ハーモニカとグランドピアノがあれば後者を見るだろうし、東京タワーとスカイツリーがもし仮に並んでいたらめちゃくちゃ鬱陶しいだろう。どうしてこんな巨大な、兄弟みたいな人工建造物を並べたんだと疑問を抱くに違いない。私はそう頷きながら、例え話の難しさを改めて思い知った。
というわけで、私は別のとても大きな違和感に注目していた。体内時計の正確さだとか、どうして真夜中に目が覚めたのかはどうでもよく、起きたばっかりで頭が冴えてる理由なんて、道端に落ちている石ころがどこからやってきたのかと同じくらい気にならなかったし、気にしてはいけないことだと思った。そんなことよりも、気にするべきことがあるだろう。
りんりん、と。
そう、鈴虫の音色が聞こえたんだ。
家の中で虫が湧いたとき、相当びっくりしてしまうのは、想定の外にある出来事だからだ。道の真ん中で虫がいてもそれほど驚かないし、まあもちろんめちゃくちゃ苦手な人は騒ぐかもしれないけど、だとしても部屋の中ほどじゃないはずだ。森の中なら尚更も尚更。もしそれで騒ぐなら森を知らないだけ。犬も棒に当たるように、少し歩けばすぐ慣れる。枯れ葉や枝木はそこらじゅうを埋め尽くしているし、木々は日差しを遮って割と寒い。風が吹くと以外とうるさくて、そして、虫の音が聞こえる。
もちろん、私は部屋の中で鈴虫の音色が聞こえることなんて想定していないから、相当にびっくりした。バネのように飛び跳ねて、あたりを見渡した。人間ってあそこまで垂直に跳ねるんだと今だと感心するくらいに、何なら私がバッタか何かなんじゃないかと軽口を言いそうになったほどだった。仰向け垂直跳びでいい記録を出したいなら、起き抜けに鈴虫の音色を聞くといいかもしれない。まあ、そんな競技ないんだけれどさ。
無視して進めよう。カーテンの隙間から差し込む月明かりを頼りに、音色の元を探す。どこから聞こえているのか、特定しないと落ち着かない。どうするかはそれから考えよう。私は泥棒のように自分の部屋を家探しする。ベッドの下、クローゼットの中、本棚の裏、カーテンをばさばさばさ。だけれど案の定、見つからない。
いやはや、どうしたものかと、私は頭を掻いた。掻いて、そこで気づいた――ここは夢だ。
なんてことはない、ないはずのものがあったのだ。私の髪が長い。人の目を嫌に引く、肩甲骨を覆うくらいの長さの髪はもういないはずだ。跡形もなく、私を構成する属性から消えている。肩にもかからないほどすっきりした髪型が新しい私だ。
にもかかわらず、今の私には長い黒髪がある。なるほど、夢か。
夢に気づく儚い夢。明晰夢。私は明晰夢を見るのが初めてではなかった。だから新鮮さは欠けている。サプライズと刺身は新鮮なほうがいいと言うのか知らないけど、私は次第に落ち着きを取り戻していた。夢だからどうでもいいやという投げやり精神のおかげでもあるけど、最も大きかったのは夢の中でくらい、鈴虫さんには好きなところで鳴いてもらおうと思ったからだ。夢の中でくらい、寛大に生きてみたい。
しばらくぼーっと音色を聞いていると、いい子守唄になるかもしれないと私は小さく笑った。音のある夜もいいものである。そうやってリラックスしたことを皮切りに、どっと疲れが私を襲った。仕方ない、寝よう。
私の経験上、明晰夢、夢であることに気付きはするものの、夢の内容を変えることはできない。あくまでも私の場合は、であるけれど。そして夢の中で寝てしまえば夢は終わる。この夢が悪夢とも限らないので、悪くなるまえに寝てしまおう。
掛け布団の位置を調整して、いざ寝ようと横になったとき、カーテンが揺らいだ。そこで私はようやく気づいた。小さな違和感じゃない。大きな違和感でもない。それは普段、地球を意識して生活しないのと同じように、度を超えた知覚できない存在。近くて遠い、ゆえにぞんざい。そりゃそうだよ、どう生きていたら色が消えているかもしれないなんて思いつく?
月明かりに照らされた部分を私はじっと見つめる。目に映るものすべてが一色でできている。それ以上でも以下でもない。いや、いうなれば異常だ。濁った茶色、まるで錆びのようなその色は、部屋の色を侵食していた。部屋を埋め終えた錆びは、ベッドに侵食しつつあって、今まさに私の腕の色を奪おうとしているところだった。それを私はただそれを眺めることしかできない。
部屋には鈴虫の音が鳴り響いていた。