あくまでも、

――こんばんは。

 そういって入ってきたのは気弱そうで、大人しそうで、虚弱そうで、自信なさそうな、

 悪魔だった。

 

「なんかすみません、勝手に入ってきちゃって」
 そういうなら入ってくれるなよ、とは言わなかった。
 というより言えなかった。俺のほうが悪魔になってしまう気がしたから。

 八畳一間、都会とは決して言えないが田舎でもない平凡な地方都市。それなりの栄えていない具合の町で、主要な国道は通っているけれど、新幹線の乗降駅までは一時間かかる、そんな感じの場所だ。暮らし始めて早一年半になるけれど、予想通り居心地がいい。一番近いコンビニまで車に乗らないといけないような実家よりは便利で、コンビニでドミノ倒しができそうな都会ほどは便利過ぎない。悪魔だとか悪霊だとかがたびたび出るという噂を考慮しても、自分の希望通りの立地だった。まさか本当に悪魔が出るとは思ってもいなかったが。

 そう、悪魔。

 俺は背後の悪魔に対して、
「別に構いませんよ。緑茶より麦茶がいいですよね」
「ああ、すみません。頂戴致します」

 窓からいつの間にか入ってきた件の悪魔、いかにも悪魔らしい悪魔は、部屋の中央に鎮座しているマスカットが濁ったような色のローテーブルの前に正座していた。背筋も伸びていて、どこかでああいう人を見たことがあるなと考えを巡らせながら硝子のコップに麦茶を注いでいたのだけど、注ぎ終わる前に就活をしている大学生だと思い出した。
 恭しくて、初々しい。
 そんな悪魔は、桜の咲く季節が似合う彼らに似ている。
「今日はどうされたんですか?」
「驚かないんですか?」
 質問を質問で返され、俺は唸った。言われてみれば確かに、悪魔が来客したことはこれまで生きてきた中で一度もない。となると俺はもしかすると死んでいるのかもしれないと思った。
 ので聞いてみることにした。
「もしかして俺って死んでますか?」
「えっ」
 悪魔も豆鉄砲は喰らうらしい。少しだけ賢くなった気がする。

 何だか難しい顔をして悪魔が唸り始めたので、俺は改めて彼もしくは彼女を観察することにした。悪魔の性別はよくわからない。ただどこかの本で、見る者によって悪魔の見え方は違う、と読んだことがある。ということは、この悪魔は彼に違いない。
 背中に生えている二枚の両翼は器用に畳んでいて、ちょっと大きめの折り畳み傘のようだった。要は邪魔そうだっだ。背中から生えているのは紛れもない尻尾で、こちらも変幻自在に動かせるらしく、くるくると充電コードのようにまとめられていた。要は座るのに邪魔そうだった。
「死んでないです」
 今更ながら返ってきた答えに、俺はそうですかと投げやりに答えた。別に槍を投げたつもりはないのだが、思いやりを手にしていなかったのも事実で、悪魔はどこか落ち込んでいた。精神的攻撃が効くらしい。
「で、今日は何用ですか」
「本当に驚かないんですね」
「見たものしか信じないので。逆に言えば見たものなら何でも信じます」
「悪魔でも、ですか」
「そうですね。あとやっぱり悪魔なんですね」
「ううーん、そういうパターンは習ってこなかったので難しいです」

 俺の問いかけを無視して、悪魔はどこからともなく何だか羊皮紙の束みたいなものを取り出して、ぱらぱらと捲り始めた。眉間には皺が寄っていて、こういう表現が合っているのかわからないけれどとても人間味に溢れていた。他に悪魔を見たことがないので彼が特別変わっているのか、それとも悪魔全般がこうなのか検討がつかなかった。判断するにはもう一匹以上、悪魔にあわねばなるまい。
 まさか、悪魔に会いたいと願うとは思いもよらなかった。

「えーと授業でならってないけれど、単刀直入に言ってもいいですか」
「内容によります」
「そこを何とか」
 悪魔が両手を合わせて頭を下げる。これで断ったらまるで俺のほうが悪魔みたいだ。
 となると俺まで悪魔になるのは嫌なので、
「じゃあとりあえず聞きます」
「寿命をください」
「断ります」
 そんなぁ、と彼は顔を歪ませた。考えが甘すぎるのではないだろうか。
 仕方がないので、おそらくクリスマスに売れ残った洋菓子くらい甘い彼に対して、俺は珈琲くらいの苦言を呈すことにした。
「おいそれと寿命をあげる人間はそんなにはいないと思いますよ」
「でもゼロじゃないってことですよね」
 どんなところにポジティブ的思考を向けているのだろう。
「単刀直入に申しますと」
「やめてくださいっ、傷つきます」
「まず無理です。寿命をあげる人間なんていません。少なくともただのお願いであげるほど、お人好しはいないですね。考えが短絡的で浅はか。しっかり考えるべき」
「やめてくださいって言ったのに」

 無事傷が付いたらしい。とはいっても心の傷は目には見えないので信じない。
 ふと煙草を吸いたい衝動に襲われる。禁煙に成功して二年。最近は衝動すらも襲ってこなかったのだが、今日は珍しい。そう思ったところで窓から悪魔が入ってくるような日なのだから何でもありか。俺は早々に想像と合点した。
「煙草を買いに行きたいんですけど」
「寿命と交換しませんか?」
 小銭か。
「しません」
「そんなぁ」
「寿命を集めないといけないみたいですね」

 ええ、悪魔なので。彼は頬を掻きながら答えた。まだ半人前なのでノルマは少ないんですけどそれでもだいぶ苦労しています、とのことだった。楽しそうで何よりなのだが、少なくとも人ではないので半人前という表現は間違っている。
「人間が死ぬときっていつも悪魔と寿命のやりとりをするんですか?」
「大方、ですね。死神に奪われてしまう場合でなければそうです。病気なんかは元々設定されていた寿命ってことになるんですけど、事故とかは何か願い事を叶えた代償に、ってケースは結構ありますね。何か気になることでも?」
「ええまあ、ちょっと身内が事故で」
「それはご愁傷さまです」
 なんかこう、変な感覚がしたけれどうまく言い表せる気がしなかったので、心のモヤは煙のように吐いて捨てた。

 そうだ、煙草。

 よっこらしょ、と立ち上がると半悪魔前の悪魔も合わせて立ち上がった。いや、宙に浮いた。手には羊皮紙っぽい束があり、彼はそれをばさばさと翼のようにはためかせて、
「よければお調べしますよ。もしかするとその身内の方は何か願い事を叶えたのかもしれません。そうだとすればご本人様の無念はあまり存在しないってことになりますし」
「なるほど。それで寿命を稼げばいいんじゃないですか」
「なんですかそれ、悪魔的じゃないですか」
 その表現がどんな意味かは存じ上げなかったが、感動しているらしいことは伺えた。羊皮紙らしき何かに、彼は爪を使って熱心に文字を書き込む。どうやらなぞると紋様が浮かび上がるようで、煎じて飲んだら面白そうだ。ただ、安全は保証できない。
「……」
 あまりにも一生懸命にメモをし続けるので思わず、
「そんなによかったですか」
「素晴らしいですよ。実質願いを叶えてはいるものの、何も与えていないというところが最高に狡くて最低でゴミっぽいです。なかなかできる発想じゃありません。クズですよ」
 褒められている気がしないのはなぜだろう。

 書き込み終えたらしい悪魔が、お礼になんですが、と切り出してくる。
「その身内の方のことお調べしますよ。もちろん、寿命はいただきません。せめてものお礼です」
 嬉しい申し出ではあるものの、俺は小さく首を横に振って遠慮した。
 まさか断られると思っていなかったらしい半悪魔前の彼は、物珍しそうな顔で理由を問う。
「いや、簡単な話で俺は見たものしか信じないってだけです」
「すごい徹底ぶりですね。気になったりしないんですか?」
「ええ、気になりませんね。――どうやら彼は夢を叶えたそうなので」


 俺は目の前の悪魔を眺めて言った。