最近河童が家に出る。来るのではなく出る。いつの間にか布団に胡坐をかいて暇そうに欠伸をしている。訪問者であれば門前で払うこともできようが、小蠅のごとく湧き出てくるのだから対処のしようがない。当方、呑気だけは一人前と評されるほどの愚鈍者。蠅や鼠の類と違って話が通じるだけよかろう、と特に騒ぎ立てることもしなかった。
河童は横柄ながらも礼儀作法を弁えていた。足の裏は湧き出てくる前に洗い、さらには乾かしてきたらしい。松の葉を彷彿とさせる翠の肌も汚れてはいない。人に会う約束がなければ二日と風呂に入らない当方よりよっぽど綺麗である。たまに頭の皿からぽたりと水が零れるが気にならない。人間だって汗をかく。そんなものだ。
初めて河童が湧いた日はひどく驚いたが、今では河童が珈琲に幾つの角砂糖を入れるかすら知っている。これほどまでに他人を理解したことは生まれてこの方一度もない。そのことを話すと河童は、理解しようとすらしなかったのだろう、と特に面白げもなく述べた。なかなかの論述家である。河童はさらに付け足した。まあ私は人ではないがね。
時間を潰せるものはないのか。河童は現れるたびに言う。であればその文言を書いた紙でも持って湧いてくればいいのにと当方も決まって文句を返すのだが、「馬鹿を言え、口に出すから言葉なのだ」「であれば私が日々目にしている言葉は言葉ではないのか」「あれは文字だ。言葉ではない」「だが文字は目で読むものぞ」河童は黙った。やけに弱い論述家である、というのは冗談にしても、当方の極貧家宅に時間を潰すことのできるものなどなにもない。世間で流行っている趣物の大抵は手にしたことがなく、毎日を堕落したように過ごすために金と時を使っていた。これが巷に言う浪費に当たるのかどうかはわからないが、愚鈍者である自分が生きるには一番楽だった。それ以上のことはない。
しかしながら、河童は苦しそうであった。彼の方はどうも時間を無下に扱うことをよしとしておらず、横柄を振り回して活路を見出そうとしてくるのだ。当初こそ厚かましさしか覚えなかったが、今では何かしらに付き合うことを苦としていなかった。将棋、囲碁、論述、風景画。金の掛からないことばかりをやった。先日は写経である。「どうして今の時代にこのようなものを」「どういう意味か。言葉の意味がわからない。お前は言葉をしゃべらない」「娯楽は他にもありまするぞ。最近の玩具は進化しておるが」「それらは娯楽ではない。娯楽とは文字通り楽しめてこそのものである」「最近の玩具は凄まじい。まるで別世界に行ってしまったかのような体験をすることができまするぞ」河童は言った。今しておる。
珈琲を向かい合って啜る。茶受けなどという洒落たものは棚にはないが、つまむ程度なら用意できるだろうと冷蔵庫の中を見渡す。「肉はどうだ。胡瓜はないが」「構わん」「構わんのか」「聞いておいてその反応はなんだ」河童は胡瓜を食べるものではないのか。首を傾げながら加工肉を適当な野菜屑とともに炒める。「胡瓜なら持ってきた。入れるがよい」河童は持ち切れぬ量の胡瓜を身勝手に置いた。
炒め物と胡瓜を齧りながら言葉を交わす。河童は博学で様々な知識を頭に詰めていた。昨今ここまで物覚えがいい人は見たことがないほどである。まるで頭の中で辞書を引いているかのように、刻はかかれど必ず正答を言にする。中でも語源の知識は段違いに分厚いようで、見てきたかのように話すのだった。そして最後には必ず河童の川流れについて、あれは溺れているわけではないと熱弁する。あとひと月ほどもあれば物覚えの悪さだけは一人前と言われている当方といえど覚えるだろう。熱弁を終えた河童は煙草を難なく盗むと、包装紙を契って自前の煙管へと入れた。咎める前に河童は笑う。「どんくさいから悪いのだ」
「その方、夢はないのか」
突然の問いかけは思いもよらぬものであった。「夢か」「そうだ。現から逃ぐためではなく、現と現のはざまの相対するものでもない。真の夢だ」回りくどい言い方にも、もはや目は回らなくなっていた。当の河童は誇らしげに胸を張って、かようなことを度々口にする。おそらくあちらの世界ではこのような言い回しが流行っているのだろう。略語なるものが跋扈している現代では笑われ者ぞ、と過去に思い、指摘したことがあるのだが、河童は憤慨して聞き入れなかった。それだけで済めばよかったのだが、彼の方は怒りを続け、横柄を横暴へと昇華させようとしていた。最初の方はそれとなく見守っていたが、万年筆の一本が折れたときには、愚鈍な当方と言えど困り眉がせり上がった。とはいえ、鎮められるようなものに持ち合わせはない。仕方がないので略語を教えると進言したところ、斜めを向いていた河童の機嫌はいともたやすく持ち直したのだった。
「おい、聞いておるのか」夢現から戻ってくる。「すまない、考え事をしていた。夢はない」「ないのか」再三の問いにも首を振る。そんなことを言っていられる齢でもない。けれども齢だけの問題だろうか。五年で足りるか。十年ではどうだ。十五年は戻ることすらも拒んだ。
「なあ河童よ」
「どうした改まって。お前にして珍しいじゃないか。へそで茶でも沸かすつもりか」
「夢とはどのようにして見るものぞ」
河童は煙管から口を離した。「守るのを止めよ」
「守るとはなんぞ」
「今日は禅問答か。なかなかいい計らいだ、趣向が凝っておる。――守るとはその字自体の姿形からもわかる通り、家の中で縮こまることである」
「縮こまってるつもりはないのだが」
「それが縮こまっておるというのだ。守ることをやめた者は日々震えながらも夢を描いておる。まだまだ、と身の丈に合わない戯言を並べておる」
「滑稽ではないか」
「ああ、滑稽だとも。夢とは滑稽なものなのだ」
「私は滑稽を欲しがっていたのか」
「そうだ。お前は滑稽を欲しがっていたのだ」
「なんと滑稽なことか」
「いいや、滑稽ではない。お前は滑稽にすらなれていない。自惚れるなよ、河童もその川にはよく溺れる」
二人してよく笑った。ここ数年で一番のことだった。
「言い忘れておったがもう湧いて来れなくなる」
「なぜだ」
「皿が割れるのだ」
「なぜ割れるのだ」
「皿が割れるからだ」
禅問答をしたいのではないと告げると河童は有無も言わず、ただ壁にもたれかかった。ぽたりと皿の水が壁を伝う。
「死ぬのか?」
「いいや、そうじゃない。ただ皿を取り換えねばならぬ」
「一大事か」
「そうだ、河童にとっての一大事だ。もう湧いてこれぬくらいのな。まあ、代わりに誰かが湧くだろう。物寂しくなることを気に病むことはない」
翌日から河童は湧かなくなった。岩で堰き止められた川のようにぴたりと止んだ。湧くのは面倒な訪問客ばかりであったので、門前でひたすら払った。ある日、久しぶりに何かが湧いたと感じで喜々として貧乏家宅に帰ると、小蠅が数匹飛び回っていた。
気がつけば最後に河童が湧いてからひと月以上が経っていた。あれ以来、河童は一度も湧いていない。それどころかなにも湧かなかった。代わりの誰かとやらは存在しないらしい。期待していたわけではないが、家の中がこれほどまでに静寂でうるさいことは忘れていた。当方、それからすっかり自堕落な生活へと身を置いた。そのとき置き場所を間違えたらしく、時の流れが恐怖を抱くほど速かった。暦を見ればもうみ月経っている。ふた月ではない、み月である。
仕方ないので写経や一人囲碁、禅問答などをしてみる。すると驚くほど時の速度は遅くなった。途端に大体が腑に落ちる。愚鈍者にしては割り合い早く気づいたのではないか。気持ちが昂る。しかし、夢とはなんたるものぞ。
壁に残った染みは答えない。