目が覚めたとき、僕はどこかの狭い倉庫らしきの中にいた。らしき、というのは判断材料が乏しいことに起因するのだけれど、まあ居住スペースでないことは床を見れば一目瞭然だった。こんな砂塗れのざらついたところで、窓もなく、しかも蛍光灯の点けっぱなしの場所で現代人は寝られやしない。少なくとも、僕には無理だ。
というわけで身体を起こす。持っていたはずのトートバッグは消えていた。
「やあ、おはよー」
隣の壁。四角形でいうところの隣接する辺にもたれかかっていた、のっぺらぼうがそう言った。おそらく言った。これもまた判断が難しい。いったいどこから声を出しているのだろう。もしかするとイルカや蝙蝠のように、特別な器官があるのかもしれない。
改めて見ると不気味は不気味なのだが、見ていたくなるような魔力のようなものがあった。怖いとわかっていても高層ビルから階下を覗きたくなるように、はたまた気にしないでくださいと言われると時計の音ですら除きたくなるように、抗うがゆえの魔力がその皺ひとつない人工物のような顔には、のっぺらとした顔にはあった。
でも本当に何もないらしい。植物ですら呼吸をするための穴があるというのに。
「……」
なんかこう、ゆで卵だと思うと案外怖くないな。
「じっと見つめられると、私と言えど恥ずかしいなぁ」
「ひっ」
思わず後退る。発生源のわからない明瞭な音がこれほどまで怖いとは。確かにゆで卵だと思えば怖くないが、それは話さなければの話だ。いくらつるんつるんで塩をかけて食べると美味しいぱさぱさの食べ物と言えど、話し始めたらそりゃ一瞬にして心霊現象の仲間入りである。
よかった、と心霊現象が頷く。
「記憶が飛んでいたら七面倒だなって思ってたところだけど、取り越し苦労だったみたいだね。そもそも転ばなければ八回も立ち上がらなくて済むからさ、八方塞がりになることもない。まあこんな密室で言うことじゃないけど」
困った。内容がまったく入ってこない。
すると、困惑しているみたいだねと、のっぺらぼうはしっとり笑った。
「別に構いやしないよ。私の話なんて九割が戯言だからね。覚えなくてもいいし、そもそも気にしなくてもいい。とはいえ、それで大事なことを聞き逃されても困るから、そうだね、大事なことは二度言うことにするよ。二度言うことにするよ」
顔に起伏のない彼女は、やけに楽しそうだった。呆然としている僕とは雲泥の差がある。
「楽しそうですね」
なので、こう返すのが精一杯だった。
だというのに、
「気味が気を失っていたのは、実は三十分くらいという短い時間だったりする」
「……そうですか」
「つまらなさそうだねぇ。どうして盛り上がれないんだい? 三文小説でもびっくりな展開だというのに」
だからだよ。
「誘拐に妖怪ですよ。これを正常に理解しろってほうが無理があると思いますけど」
「怒ってるねぇ、しかも君にしては珍しく不正解だ。こんなときこそ冷静であるべきだよ」
のっぺらぼうの傍若無人っぷりに思わず顔を顰める。
けれども、さしもの妖怪は気にもせず、
「人ならざらぬものに何かをされたときは必ず相手の意向に従ったほうがいい。でなければふとした拍子に口がきけなくなってしまっても知らないよ。といいつつ私にはもう口なんてないんだけどさ。これが噂ののっぺらじょーく」
「誘拐犯を刺激しないように、っていうのと同じですか」
うーん、惜しくとも遠いね。のっぺらぼうは華奢な肩を竦めた。
「あれは興奮状態にある犯人を刺激して不用意に感情を爆発させないため、いうなれば爆弾は優しく取り扱いましょーって類の注意だろう。当たり前じゃん。私が言いたいのは何が危険かわからないってことさ。地雷原を歩くときはゆっくり歩くだろう? それともなんだい、スポーツカーでスタントよろしく爆走するタイプがお好みかな」
「そういうわけじゃないですけど」
「お好み焼きはソースとマヨネーズだけでいいよね。あおさはもう学生時代で充分だ」
「どうして話を自分から逸らすんですか」
「聞く耳を持たないからね。のっぺらじょーく」
なんだこの鬱陶しさは。久しぶりに他人に対して怒りを覚えた気がする。
ああ、人じゃないんだった。
「とはいえ、さすがに閑話も休題するべきだよね。そろそろページが変わりそうな気がするし、段落としてもちょうどいい頃合い。起承転結で言うところの承で、結末にはまだ程遠いけど、話が進まないことには転びようもないからね。不承不承というやつだ。章がないとも言う」
「本題とはなんですか」
「私の仕事を継いでもらうことになっている」
仕事。のっぺらぼうの仕事とはなんだろうか。のっぺらぼうに関する知識が乏しいためまるで予想が立たない。人間を驚かせたりするのだろうか。となればお化け屋敷での勤務になるが、まさかコンビニのレジ打ちではあるまい。勤務時間が深夜であればそれはもう立派な怪談だ。いや、そもそも人間社会に溶け込んでいるのものなのか?
彼女は指を二本立てると、片方をゆっくり折った。白くて細い、人にしか見えない指を。
「まずこれが大枠。小枠について突き詰めていこうか。私の仕事は主に、妖怪を退治することだよ」
「妖怪が妖怪退治をするんですか?」
「そうそう。人間だって人間を退治するだろう、それと一緒さ。人間でも妖怪でも、折の合わない奴もいれば、顔も見たくないやつもいる。ああ、ここでいう顔っていうのは顔面という意味ではなくてだね、面と向かって話すとか言うときの面で、」
「わかってます」
「のっぺらぼうも顔はそれぞれ違うんだよ」
「それは知りませんでした」
「見てると意外に区別できる。のっぺら感が違う。私の曲線感は独特だろう。詳しく説明すると」
「すみません僕が悪かったです勘弁してください」
のっぺらぼうは満足したようで、ゆっくりと話を戻した
「勢力争いというのは実は、妖怪世界では絶えないものなんだ。それこそ見るに絶えないほどにね。縄張りもそうだし、人との距離感もそう。主義思想もそうだし、そもそも存在自体が天敵の場合だってある。概ね人間社会と似てるけど、人間より質が悪いのは部族や種族ごとのしがらみが強すぎること 。集団が個人の上に来ているんだ。例えば、私と君がこうやって話を、やばい話をしてるとする。リアリティに欠けるから実例を出すとすると、うーん、のっぺらぼうの一族の秘密を喋ってしまうとかね」
「なるほど」
さっきの見分け方の話であってくれるなよ。
「不祥事が起きると、まず一族の有力者だけを集めた会合が開かれる。どう落とし前をつけるかってことでね。秘密をもらしてしまった君は人間だから、されるのはおそらく記憶消去くらいだろう。冗談でも君から口を奪うために殺しはしない。そういうことを専門にしている妖怪に有力者たちが話をつけて終わりってわけ。問題は、私だ」
「……どうなりますか」
「死ぬくらいだったら御の字。一族皆殺しでまあ平均ってころかな」
「それで平均」
これ以上は聞かないほうがいい、と彼女は笑った。相変わらずの綺麗な声だった。
「なんだけどさ、もし私が長老の娘とかだとすると無罪放免なんだよ。嫌になっちゃうよねー。一族の決定が個体よりも上にくるってことはさ、個体よりも強い個体がいるってのと同義だからさっ」
「誰か反対とかそういうのって」
「ないよ。口にすれば抹殺だからね。そういうものなんだよ。こっちの世界に道義なんて一切ないんだ。二つの例外を除いてね」
ようやく飲み込めてきた。
「そういった軋轢を解消するための、妖怪退治ですか」
「大正解。やっぱり私には人を見る目があるみたいだ。のっぺらじょーく」
けらけら笑うのっぺらぼうを前に、僕は頭を抱えた。
妖怪退治。それも同じ妖怪ののっぺらぼうがするなんて、聞いたことがない。
「なんかもう理解の限界を超えてる」
「わかるよ。さすがの私にも頭はあるし、私もそうだったから。でもお金はたくさん稼げるし、欲しいものも手に入るから悪いことだけじゃないんだけどね。怖い思いもするけど」
「あんまり嬉しくないですね——って『私もそう』ってなんですか?」
「あちゃー口を滑らせちゃった。のっぺらじょーく、ってことにはならなそうだね」
僕は真剣に彼女を見た。人間であれば瞳のある場所をじっと。
ずっと好き勝手話されてきたけれど、そろそろこちらが聞きたいことを話すべきだろう。
その思いは伝わったらしく彼女は肩を竦めた。
「わかってる。ちゃんと話すよ。その前に最初の仕事内容だけ聞いて欲しい。なんてったって、退治してもらうのは何を隠そう、のっぺらぼうだ」
思えば彼女は仕事について、まるで確定事項のように言った。
——『継いでもらうことになっている』
継いで欲しい、ではなかった。
今ならわかる。そこに僕の意思は存在しえなかったのだ。だからこその断定形だったのだ。
「私を、君の手で私を殺せ」
集団の決定か、彼女の願いか。
物語は始まりへと加速する。