探偵というものほど、理想と現実がかけ離れた職業はないでしょう。
難事件を解決することもなければ、警察からライバル視されることもない。そもそも事件というものに関わることはほとんどありません。依頼があることがそもそも少なく、あったとしてもペットの捜索が関の山です。到底、小説の山場にはなりえません。いいところ、コマーシャルの谷間を埋めるくらいでしょうか。探偵というのは所詮そんなものなのです。
すみません、自己紹介が遅れました。私はとある探偵事務所で助手兼事務をやっております立花早苗と申します。ある縁からこの閑古鳥を放し飼いにしている探偵事務所に勤めているのですが、いかんせん暇ですので、暇潰しがてらこのように日記のようなものを書いているの次第です。
まあ元来より助手は手記や日記を書くものですから、皆さまも納得していただけるかと思います。ああ今回のミステリーは助手の一人称視点だと、聡明な方なら思うかもしれません。ミステリー好きの方であれば叙述トリックに注意をして文を読み進めますでしょうか。はたまた、今回の探偵はどんな尖った能力をもっているかとわくわくしていますでしょうか。だとすれば大変心苦しい限りです。というのも私の周りでは人は死なないからです。
大体、他人とはいえ自分の周りで矢継ぎ早に殺人事件が起きたら恐ろしすぎるでしょう。物騒にもほどがあります。もしそうなれば私は亥の一番に姿を消すことでしょうね。私はこれでも幽霊と血と馬鹿が嫌いなのですから。殺人事件はそのうちの二つを揃えますもの。
出来る限り平穏に暮らしたいと切に願って二十二年。探偵の助手をやる羽目になるとは思いもよりませんでした。ここに関してはちょっとばかり物語の匂いがするものしれませんが、何もなかったのですよ。なので平凡な昔話はやめまして、そろそろ私の勤めます探偵事務所についてご紹介することにしましょうか。
東京の繁華街の中心地。から人のいないほうへ三キロほど進んでいただければ探偵事務所がある地区に辿り着きます。車通りは多いながらも人の住んでいるような気配のない、いわばゴーストタウンのような地区です。建物全般が灰色のせいか、曇りの日には霧がかかって見えます。雑居ビルが秩序となく乱立する様は節操がなく、唯一の心の拠り所となる街路樹もペンキで汚されており、至るところでお目にかかれるスプレー文字はアートとは程遠いもになります。たとえ明るい日中だとしても女性が一人で通っていい場所ではありませんね。もう何度通ったかわからない私が言うのも何ですが。
そんな鬱蒼とした場所も、夜になれば幾分か華やかになります。雑居ビルに入っているバーやパブ、食事処はもちろんのこと夜間病院なんかも開いていますね。繁華街が近いがゆえに、人通りもちらほら増えます。それはもう賑やかで、事務所にいると怒鳴り声や悲鳴が結構な頻度で聞こえます。パトカーのサイレンはもはや子守歌ですね。人の温かみを感じますし、安心しますし。
さてさて。数ある雑居ビルの中の一棟、築三十五年とは到底見えない綺麗さのビルがあるのですが見つけられますでしょうか。鍵はオートロックで四階建て。一フロアには一つしかテナントは入りませんが、それはそれで居心地がいいものです。何より専有面積が一般的な広さの二倍もあります。部屋の広さは心の広さといいますが、おかげで他人のミスに関して寛容になれたのかもしれませんね。もし狭い事務所だったら鼻の骨ではなく、腕の骨を折っていると思いますから。
水道電気ガスはもちろんですが、ここらで珍しいのはしっかりとインターネット回線が通っていることです。名ばかりの設備ではなく確か光回線だかなんだかという、存外ちゃんとしたものらしく、ネット環境に関しては不自由したことがありませんね。動画再生も快適です。おそらく管理人の方が相当好きなのでしょう。ありがたやありがたや。快適なネットライフを送らせていただきます。
そんな雑居ビルなのですが、まあ築三十五年ということもあって格安の賃料だったりします。本当に最初見たときはこんな物件があるのかと思って三回は見直しましたね。あるところにはあるのだなと。私の雇用主である、探偵もさすが探偵といいますか、よく見つけてきます。今思えばあれが最初で最後の感心でした。ちなみにビルは曲がってるんですけど、まあそれくらいいいですよね。世界には曲がって立っていることで有数の観光名所になっている建築物もありますから。何事も形からというやつですね。
何かのアトラクションかと錯覚しかねないほど歪んだ外階段を楽しみながら上がりまして、三階。他人様の目もありますから、すっとビルの中に入りたいものですが行く手を阻むのは鍵の掛った分厚いガラス扉です。何でも、小型拳銃では貫通できない防弾仕様なのだそうで、ところどころに撃ち込まれた銃弾と幾何学模様を成している亀裂がその証拠です。安全だったことを目で確認できるというのはいいことですね。そんな分厚いガラス扉を開けるには、横の壁に設置されています認証機に入館証か指紋をかざす必要があります。素晴らしいセキュリティ意識で、ここで働いている身としては嬉しい限りです。このビルのオーナー兼管理人――高梁さん、にはお会いしたことがあるのですが、この鬱蒼とした街に似合わずのんびりとしたいいおじさんなのですよ。ちょっと抜けているところがありますが、それも風情というものです。そのうちいらっしゃると思うので、その際にはご紹介しますね。
実は、この認証機も高梁さんが私のような女性が働くのだから、と導入してくれたものなのです。ジェンダー的な差別ではなく、純粋な心配でしたので甘えさせていただきました。心配りや気遣いができる方は年齢性別に関らず、どきっとしてしまいますね。さて、中に入りましょうか。私はそっと入館証をかざしていつも扉を開けます。ちなみに指紋認証は誰の指でも開きますので、もしいらっしゃったときは呼び鈴ではなく指紋をかざしてくださっても大丈夫です。
フロアに入りまして、右手が給湯室、その奥がお手洗いになります。水ものは固めておくのが建築上のうんたらかんたらと聞いたことがある気がしますが、そんな感じでしょう。給湯室は自由に使ってもらって構わないですが、カップラーメンの塔は崩さないようにお願いします。崩すと拗ねる従業員がいるので。崩した際は私が直しますから、代わりにカップラーメンを一つ買い足していただければ結構です。
正面の壁にはうちの従業員が集めている油絵が数枚飾られています。こういったものが飾られていると、一気にオフィス感がでますね。照明なんかも油絵の発色や見栄えがよくなるように位置を調整し、暖色を使用していたりなんかするのですよ。もちろん間接照明もそのためです。ええ、何を隠そう私がセッティングしました。自分の家より手間暇をかけたこともあり、胸を張れる出来栄えです。飾られている絵のテーマが『ペンギンと悩み追い詰められる探偵』だけというのは気掛かりですが、まあ私は芸術がわかりませんので、わかる方にお任せしましょう。探偵事務所の前に探偵が悩む絵を飾るのは絶対に縁起が悪いのに、と私はいつも首を傾げて絵の前から立ち去るのです。おそらく、どちらも難局にいると言いたいのだと思いますが、だから何だというのでしょう。芸術はよくわかりません。
ようやく私の事務所に辿り着きました。いささか書き過ぎたきらいもありますが、それだけ書きどころが多いということなので喜ぶべきでしょうね。まあ、暇潰すにはもってこいです。探偵の助手としては依頼を持って来いというべきかもしれませんが、ご覧の通り事務所には私しかいません。潰す暇はいくらでもあります。
とはいえこのまま現状をだらだら書いていても面白味がありませんから、珍しく依頼が複数あった先日の話でも書きましょうか。あの日は連日働き過ぎで疲れていまいしたね。軟弱で情けない限りです。もう本当に疲れていたので、このままでは仕事にならないとエナジードリンクで気合を入れたことを覚えています。だって私しか仕事をしなのは不公平じゃないですか。だからこう、そう、いつも通り従業員をエナジードリンクでぶん殴って気合を入れました。二回くらいですかね。それからはちゃんと働いてくれたので、やっぱりここの人たちにはそれくらいがちょうどいいのですね。私はちゃんと学習しました。
前置きが長くなりました。それでは話を始めましょうか。
ようこそ、何も起きない探偵事務所へ。