物心 「シャープペンシル」

 八百万の神や付喪神を知っているだろうか。

 聞いておいて申し訳ないけれど、詳しくは俺も知らない。すべての物には神が宿っているだとか、百年使うと魂が宿って神になるだとか、その程度の話を聞いたことがあるくらいだ。一般的な知識レベルだろうし、このレベルであれば多くの人が知っているだろう。

 いわゆる日本古来の考え方、物を大事に使いましょうというのは、ここから来ていると俺は思う。茶碗一つにも神様が宿っているならそりゃ大切に使わなければいけないし、大事に使って神様が宿れば、それはまあ守り神になってくれるだろうという打算とかもあったと思う。

 一家に一台の洗濯機じゃなくて、一家に一柱の神様。なんと心強い。

 ある一つの物を百年使うというのは、産業革命以前の時代でも相当大切にしないと出来なかったはずだ。あの頃の物と言えば、茶器、箪笥、簪、着物、下駄などなど。俺の想像力が芳しくないせいで江戸時代っぽいものしか出てこないが、勘弁してほしい。

 大事にするというのは我慢をすることでもある。茶碗は少し欠けても使えるだろうし、下駄の鼻緒が切れたときは修理できる。

 もちろん買い直すことができるのであれば、新の物というのはそれだけで縁起がいいわけだし、望ましいはずだ。ただ、庶民にはそんなことはできない。

 だから我慢しなければいけない訳だけれど、我慢って言ったら物に対して失礼だ。言われて嬉しいことじゃない。だから、大事にするという言葉を使う。

 人間関係もそうだ。どうせ何かは我慢しなきゃいけない。完全に気の合う人間なんて、そうそういないからだ。

 でもその我慢こそが、大事にしているってことなんだろう、と。

 ここまでが、ある奴がくどくど俺に話した内容に他ならない。十回は聞いているし、テスト前にする話じゃない。俺の現代文の点数も大事にしてほしい。赤点になったらちゃんと呪ってやろうと思う。

 もちろん、テスト勉強を理由に話を遮ってもよかったわけだけれど、そうはしなかった。そう、関係性を大事にしてやったわけである。

 なんでこんな話をしているかというと、最初の付喪神の話をしてくれたのも、そいつだからだ。

 まったく、変わったやつである。

「恭弥(きょうや)は宿題終わった?」

「終わるわけねぇだろ。人間がやる量じゃねぇよ、まったく」

 十二月も真ん中を過ぎ、もう少しで聖夜が訪れる頃だった。その後ろには年越しが控えているはずだが、実感が湧かない。例年通り、冬休みに入ってようやく感じ始めるのだろう。

 葉が全て落ちた木の間を、滑るように北風が吹く。針で刺すような寒さが顔を覆い、思わずネックウォーマーに顔を埋めてしまう。日に日に増していく寒さに、防寒具が手放せなくなってきていた。

 寒い、と零した言葉が白く塗られる。

 俺たちは学校から帰宅している最中だった。周囲は閑静な住宅街で、その静けさが一層の寒さを際立てる。隣を歩いている湊人もマフラーをこれでもかと首に巻き付けていて、何なら少し埋まってさえいた。季節が秋ならそういう仮装だと勘違いされてもおかしくないだろう。

 白河湊人(しらかわみなと)。小学校から付き合いのある友人で、小中そして高校でも有名になりつつある人気者である。社交的で頭が良く、距離感を大切にする。俗に言う成績優秀、品行方正といった四文字熟語は彼のためにある。

 そこまで完璧に近いと嫉妬を買いそうなものだが――事実買っていないとは言えなが、俺からするとあんまり気にならなかった。なぜなら身長が小さいからである。

「そうだよね、あの量はおかしいよね」

 湊人が苦笑して同意する。どうやら成績優秀な彼ですら終わってないらしい。

「去年はこんなもんじゃなかったよな」

「うん、単純計算で二倍くらいにはなってるんじゃないかな」

 まじかよ、と俺は呻いた。まだここに古典の宿題が追加されるのである。

 くらくらする頭を振って正気を保つと、あれじゃないかな、と湊人は指をたてた。

「うちらの学校って進学校っぽい普通の学校だったでしょ。それで最近は進学実績がいいから、あわよくば進学校にしようって考えなんじゃないかな」

 なるほど。納得はしたが理解はしたくなかった。できれば遠慮させていただきたい。できればでいいから。

「この量はさっさと終わらせないと、まともに冬休みは休めないな」

「休めない休みって休みなのかな」

 いいか、それを哲学と言うんだ。そして迷い込まずに出てこい。

「しかもあれだよね、期末テストの点数が悪いと」

「そうだ、追加課題だ」

 二人同時に溜息を吐く。ここから課題がさらに増える可能性があるのだ。もし期末テストで転ければ、湊人の言う通り、冬休みが消えてなくなるかもしれない。

「というわけで、俺は家に帰ったらテスト勉強やるけど、お前はどうする?」

「いいね、じゃあこのまま恭弥の家にお邪魔しようかな」

 ありだな、と頷く。成績のいい湊人が近くにいてくれるのは、単純にありがたい。

 こうして、湊人と共に俺は自分の家へ帰宅した。

 ここで、俺たちの学力の話をしておこう。

 俺の頭の出来は良くも悪くもなく、中の上にいる。まあいわゆる頑張ったと思える妥協点だ。これ以上サボるのは心が痛むし、これ以上頑張るのは気が滅入る。ほどほどの達成感を味わうにはこのくらいがちょうどいい。

 一方の湊人はトップ付近をうろうろする秀才だ。これにはちょっとしたカラクリがあるのだが、そのことを知るのは俺を含めたほんの一握りだけである。なので周囲の目は称賛の視線しかあいつに向けない。本当に羨ましい限りだ。もし湊人が成績のよさを鼻にかけるような性格の悪い人物であれば、俺は友達になっていなかったと思う。

「お邪魔しまーす」

「はいよ」

 俺の家は広い。正確に言うと、俺一人が住むには無駄に広い。住宅街から少し外れたところにある四階建のマンション、その三階の角部屋が俺の家だ。間取りは2DKで、ダイニングは仕切りを立てれば二つの部屋に分けても狭くない。もう一つの部屋は寝室として使っているが、この一部屋だけでも正直足りるくらいだ。

 そんなわけで、俺の家には物が少ない。ミニマリストを志しているわけではないが、ごちゃごちゃしているのも好きじゃない。備え付けのソファ、リビングテーブルに椅子が三脚、あとラグがあるくらいである。観葉植物でも置けば見栄えがいいのだろうが、今のところ置く気はない。

 ちなみに親は訳あって別の家に住んでいる。

「俺は数学からやるかな。関数がもう意味わからん」

 僕もそうしようかな、と湊人はマフラーを畳みながら言った。凍えた外気にさらされていた頬は、すっかり上気していた。

 テーブルに教科書と問題集を広げて、俺と湊人は冬休みの課題に取り組んだ。質問をするのはもっぱら俺のほうで、湊人からはあくまでも確認したい程度の疑問しか飛んで来ない。「合ってるよ」と反射で答えるようになるのには、時間は掛からなかった。すぐに湊人に怒られたのは言うまでもない。

 白く輝いていた太陽もいつの間に赤くなり、終いには建造物の背後に沈んだ。まるで幕間のように空を暗闇が覆う。夜空のお出ましだ。

 夜空には月以外見えなかった。星を見るには、この街は明るすぎる。視線を頭上から地上へと下ろせば、そこには人々の暮らしがいくつも灯っていた。きらきらとした夜景を前に、星の輝きを消してしまうそれを安易に綺麗だと褒めるのには抵抗があると、俺は改めて思った。

 カーテンを閉めて振り返る。

「すっかり暗くなったな」

「そうだねー。本当に夜が早いよ」

 湊人は小さ身体を上へ伸ばしながら言う。

「てことはだいぶ勉強したってことだよな。ちょっとくらいゲームしてもいいんじゃないか?」

 俺の提案に、湊人は半眼を向けてくる。

「だめだよ。テスト前でしょ。冬休みに休めなくなっても知らないよ。ただの冬になっちゃうよ」

「少しだけ」

「それでこの間、何時間ゲームしたんだっけ?」

 思わず目を逸らす。湊人の鋭い視線がひしひしと伝わる。

「そりゃ僕も遊びたいけど、このあと苦しむのは目に見えてるわけじゃん。それに恭弥の持ってるゲーム機もメリハリを持って遊んだほうがいいって言ってる」

 ゲーム機の言うことじゃねぇな。

 それを裏切ることはできないよ、と湊人は肩を竦めた。どうやらゲーム機にまで心配されているようである。

「なんかこう、ちょっと己の浅ましさが虚しいな」

 俺の呟きに湊人は吹き出した。

 側から見れば、俺たちは冗談の応酬をしているように映るだろう。なぜならゲーム機は決して喋らないからである。ゲームの内容として会話っぽいことができるようになるものはあるが、小言を言ってくるゲーム機はこの世に存在しない。

 とはいえ、冗談を言っているつもりもなかった。

「あ、そうそう。鞄を軽くでも投げるのやめてあげて。だいぶ痛がってたよ」

 湊人は物と会話ができる。

 幾千のものの声を感じ取り、受け止めることが彼にはできる。

 ゲーム機の小言を聞き取ることも、鞄の訴えに耳を傾けることも、頭のいい生徒の筆記具からテストの答えを聞くこともできる。先のちょっとしたカラクリとはこのことだった。

 俺は頬を掻いた。

「そいつは申し訳ないことしたな。気をつける」

「恭弥のことだから乱暴に扱ってるわけじゃ無いと思うけどさ、そうしてあげて」

 もちろん、俺だって最初は疑った。どころか気味が悪いとさえ思っていた。

 初めて湊人の噂を聞いたのは小学校低学年の頃だった。『物と話すことができる』なんてアニメや漫画みたいなことを、できると言っている子がいると。

 正直なところ、周りの注意を引きたいような、目立ちたがりの子なのだろうと当時の俺は思った。興味もあったが、それよりも不愉快のほうが大きかったほどである。

 湊人に会うまでは。

 実際に顔を合わしてみると、湊人が普通ではないことはすぐにわかった。はったりや嘘ではなく、本当に能力があるのだと俺は直感した。困惑と純粋、そして恐れが瞳に浮かんでいた。目立ちたがり屋なんてありえない。彼は道に落ちる石ころを目指していた。誰にも注目されないことを望んでいた。

 確かに、あの頃の湊人は気持ち悪かった。常に引き攣った笑みを浮かべていたし、会話のテンポはずれていた。声も不安定で、ときおり大きな声で話し出すのである。

 今となれば、それらは物の声に会話を邪魔されたり、自分の声がかき消されているように感じたりしているせいだとわかる。が、当時は俺を含め、誰も理解していなかった。誰も湊人を可哀想な子だと見下していた。

「そう思うと今のお前って順風満帆だよな」

「え、何の話?」

 首を傾げる湊人を尻目に、俺は麦茶を取りに冷蔵庫へ向かった。

 湊人とこうして仲良くなるのには色々、それこそ紆余曲折、波瀾万丈の大立ち回りがあったのだが、ここで話し始めるとテスト勉強を諦めなければならなくなりそうなので、割愛することにする。勉強でお世話になっているあの小っちゃい高校生を怒らせたくない。

 ただ一つだけ説明すると、打算があった。湊人の能力が欲しかったのだ。

 俺は、母さんの形見を探している。

 形見と言っても、何なのかわからない。姿も形も知らない。わかっているのは、骨董品の収集家だった母さんが俺のために残した十個のコレクションがあるらしいとのことだけだった。手がかりが全くない以上、普通に探していては絶対に見つからないだろう。

 普通に探していては。

 であれば常軌を逸した探し方をすればいい。例えば、たくさんの物と会話をして母さんを知っている物がいないか、形見のことを知っている物がいないか聞いて回る方法である。

 湊人曰く、物には想いが宿るという。「もし恭弥のお母さんが、恭弥のために残した物であれば、絶対にそのことを忘れないと思う」とも、彼は言っていた。偶然にも、幼き頃の俺の打算に間違いはなかったらしい。

 ちなみに湊人には既に話していて、もう何十回もリサイクルショップや骨董品を取り扱う店に付き合ってもらっている。本当に頭が下がる。出来た人間というのはあいつみたいなことを言うのだろう。

 本当に形見が見つかったとき、俺はあいつにどれだけ感謝することになるのか、想像できなかった。今でさえ、感謝してもしきれないというのに。

 そのときは何かあいつの望む物をプレゼントしてやろう。そうだそれがいい。今までの感謝貯金を全部下ろそう。さぞ積み上がっているだろう感情をぶつけるのはきっと楽しいはずだ。まあ身長を上げることはできないけど。

「最近はどうだ、体調を崩すことはないか」

 俺の問いかけに、湊人はだいぶ楽になったよ、と微笑んだ。流した会話を不用意に突っ込んで来ないところはさすがである。

「今思うと昔は本当にひどかったよ。なんでもかんでも物心が聞こえちゃってさ」

「物心って、それ本来の使い方と違うからな」

「あ、さっき恭弥が言ったことってそういうこと?」

 流した会話を戻すな。

 そういえばさ、と湊人は何か思いついたらしい。相変わらず会話がとっちらかるやつだ。

「恭弥っていつも同じシャーペン使ってるよね」

 テーブルの上に置かれた筆記具を見て湊人は言う。本当によく見ている。いや、湊人の場合はよく聞いているって言うべきか。

「ああ。色々試したんだけど、結局それが一番書きやすいんだよ。手に馴染むって言うか」

 テーブルに戻った俺はシャーペンを手に取り、指の間でくるりと回す。やっぱり。ペン回しだけでなく、実際に書く場合でも疲れを感じにくいのだ。だから自然と、この一本をずっと使ってしまう。早三年になる相棒だった。

「恭弥って物を大切にするからいいよね。三年間もずっと使ってて、そんなに綺麗なら喜ばないシャーペンなんていないもん。他の物たちもみーんな恭弥には感謝してるし」

「そうなのか。だとしたら母さんに感謝しないといけないな」

 物は大事に長く使う。数少ない母さんとの思い出の中で、色濃く残っている言葉だった。鉛筆は持てなくなるまで、消しゴムはどこかに転がって見失うまで使いなさい。筆箱はペンが仕舞えなくなるまでだったか。

 現に今使っているペンケースは六年目である。そろそろ替え時かもしれない。

「ちなみにペンケースは何か言ってるか?」

「感謝してるよ。それと、残り短い期間、使命を全うしようとしているよ」

 自分の使っている道具に感謝されて悪い気はしない。

「だったら最後まで付き合ってもらうか」

「最高だね。ところで話はかわるんだけどさ」

「おう」

 もうすぐクリスマスだね、と。

 深いため息が部屋の中に充満する。

「お前さ、カップルじゃないんだからそういうこと言うなよ。せっかく忘れていい感じにハートウォーミングみたいな空気でよかったのに」

「僕は悪くないよ、クリスマスが悪いんだよ!」

 悲鳴にも似た言い訳を、お前が悪い、と切って捨てる。百歩譲ってクリスマスが悪いとしても、お前も有罪だ。罪は消えない。

「もしくは彼女がいない恭弥が悪いって説は」

「ない。絶対にない」

「意義あり! 被告人はちゃんとモテるのに彼女を作ろうとしません。これは自業自得じゃないでしょうか!」

 誰が被告人だバカ。

「なんで妥協して付き合わなきゃいけないんだよ。それはそれで相手に失礼だろ」

「ごもっともで」

「それに初めて付き合うなら運命の人だろ」

 湊人が目尻を下げてにやにや笑う。憎たらしい笑顔である。

「恭弥って地味にロマンチストだよね。付き合ってみないとわからないこともあるんじゃない?」

「そういう考えでお前は付き合ったり別れたりを繰り返してるのか」

 うっ、と湊人は呻く。痛いところを突かれた、と顔にしっかり書いてあった。

 湊人は社交的な性格と小動物みたいな身長もとい整った外見のおかげで、結構モテる。さっき俺のことをモテるなんて言いやがったが、大袈裟に言っているに過ぎない。さすがにバレンタインにトートバッグいっぱいのチョコレートをもらうこいつには叶わない。芸能人の武勇伝かよ。

 そんなわけで浮名には事欠かない湊人だが、どうにも長続きしない。この前も確か一ヶ月くらいで別れていたはずだ。

「いやだってさ」

「判決を言い渡す」

「僕には発言権もないの⁉︎

 わかったよ、と俺は笑いを噛み殺して口を閉じる。湊人はこほん、と咳払いをして空気を取り直した。

「僕は悪くないと思うんだよ。いやあの、別れたことに対してじゃなくてね、別れたことは二人ともに原因があるとは思うんだけど、きっかけ自体は相手にあると思うんだ。物が教えてくれるんだよ」

「物が?」

「そう、僕の悪口を言ってましたとかって」

 思わず黙り込む。それは何というか、ひどいな。

「今回の件もね、実は相手のスマホがさ『ほにゃほにゃさんの悪口を言ってました。でもほにゃほにゃさんのことも嫌いで、ほにゃららさんに愚痴ってました』ってずっと言うの」

 たぶん通話しながら愚痴ってたんだろうね、と湊人は苦笑する。

「今まで別れた理由を聞かなかったから知らなかった」

「そうなんだよ。他にも辛いのだと、プレゼントしたマフラーとかから『普段は付けてくれないんです!』って泣かれたりとか、もらったプレゼントから『安いけど高く見えるやつを必死に探して俺を選びましたぜ』とか教えてくれたときもあったよ。言われた僕を想像してごらんよ。虚しいよ!」

「お前も苦労しているんだな。ごめんな」

 てか、物たち喋りすぎだろう。もう少し自重しろ。

 おそらく中途半端に想いが篭っているから、話してしまうのだ。物には想い宿るし、それは想いに比例するとしてもおかしくない。今回はそれが湊人の重荷になってしまったわけだ。

 机に突っ伏した湊人の前に、麦茶を差し出す。

「それで結局、お前はそんな子がタイプなんだ?」

「物を大切にしてくれて、裏表のない人かな。裏も表も僕には筒抜けだしね。あとはちゃんと思ったことを言ってくれる人。これも隠しても意味ないから」

 なんか凄腕の刑事みたいだ。でも納得。

 特に物を大事にするというのは必須だろう。湊人はことあるごとに、物を大事にしない人間を『物を使う資格がないやつ』と蔑んでいるほどである。

「そういう恭弥は?」

 しまった、考えてなかった。

 腕を組んでしばらく唸る。

「そうだな、お互いに支え合える人で、芯が強い子がいいかもな」

「つまり恭弥のお母さんみたいな人ね。やっぱり恭弥って」

「それ以上喋ったら殴る。本当に殴る」

「ごめんなさい」

「喋ったな」

「謝罪もだめなの⁉︎

 小っちゃい馬鹿を放って俺はコップを手に取る。すっかり温くなった麦茶は案外飲みやすかった。

 ふと、聞きたかったことを思い出す。

「八百万の神って聞いたことあるか。なんか自然の物すべてに神様が宿っているみたいな考え方」

「あるよ。ちなみに人の髪の毛って十万本以上あるらしいよ」

 さすがに神様のほうが多いな、じゃないんだよ。雑学を相槌のように挟むな。

「すべての物に神様、っていうのはお前を見ていると納得するんだよ。神様が宿ってるから、色んな物と話せるみたいな。たださ、付喪神ってどうなんだ?」

「付喪神かぁ。百年使うと魂が宿るってやつだっけ」

 俺は頷く。湊人は百年使われていない物とも話すことができる。付喪神の考えとは少し矛盾しているように思えたのだ。

 ええとね、と湊人は言葉を探す。

「物は想いが込められていれば話せるようになるけど、実際はそれだけじゃ会話はできるようにはならないんだ。正確に言うなら声を発するようになる、かな。それもだいぶ支離滅裂で、ほとんど叫んでるみたいな感じ」

「そうだったのか」

「でね、使われていくうちに意味のわかる言葉を発するようになったり、こっちの話を聞いてくれるようになったりするの。僕はまだ百年使われている物とちゃんと喋ったことないからわからないけど、そのくらい長く使われている物だったら発信力があり過ぎて、僕みたいな能力を持たなくても物の声が聞こえるんじゃないかな」

「なるほどな、だから百年経つと魂が宿ると。あれは普通の人目線の話なんだな」

 湊人が唇を尖らせる。

「まるで僕が普通じゃないみたいに言わないでよ」

「湊人は普通じゃないだろ」

「じゃあ僕と仲良くしている恭弥も普通じゃないね」

「何を今更」

 顔を見合わせた俺らは、我慢できずに笑い出した。

 窓の外には欠けていない月が浮かんでいた。

 そんなこんなで、今日は二学期最終日の一日である。空には雲一つなく、教室の中から見る景色は季節外れの夏晴れのようだった。どうやら気温もここ数週間で一番暖かくなるらしい。これからやるテストに影響がなければいいが、なんて俺は自分の席で優等生ぶってみる。正直に言うと気温に関係なく、テストはいつも眠い。

 これから行うのは湊人と対策していた期末テストではなく、実力テストという全く別のテストだった。俺の勘違いだったのだが、冬休みの追加課題はこっちの点数と関係しているらしい。

 せめてもの救いは、期末テストの試験範囲が多くを占めることだった。骨折り損のくたびれ儲けにはならなくてホッとした。これで追加課題なしの点数を取れたらどれだけ嬉しいだろう。勉強の成果をしっかり出してやる。

 ちなみに実力テストの結果返却は明日の終業式後に行われるという。先生方の気合いと元気を分けてほしい。そして本当にお疲れさまです。

 記念すべき最初の試験科目は現代文である。得意でも不得意でもない。スタートダッシュを決めるのにはちょうどいい。

 問題冊子と回答用紙が前の席から回ってくる。次第に教室をテスト前特有の静寂が包み、音が尻すぼみになっていく。聞こえるのは時計の秒針の音と、自分の鼓動だけ。

 このテスト前の時間が俺は苦手だった。どうしても緊張してしまうのだ。ちゃんと勉強すればするほど、ど忘れしたらどうしようとか、解けなかったらどうしようと考えてしまうのだ。努力したからこそ、結果が出さなければいけないというプレッシャーに襲われるのだ。何とも難儀な正確だと自分でも思う。

 でも考えてみれば、最近はテストが開始してしまえさえすれば、緊張はいつの間にか消えていた。高校生になってテストにも慣れてきたのだろうか。

 物思いに耽っていると、まるで狙い澄ましたかのようにチャイムが鳴った。

 俺はシャーペンを手に取ると、まず回答用紙に名前を書いた。これを忘れちゃいけない。

 ふと気づく。やはり緊張は消えていた。名前を書く手がぴたりと止まる。

 もしかして。

 頭に満ちる雑念を追い払い、俺は目の前の問題に集中した。

「恭弥も追加課題無しかー。意外だなぁ」

「俺自身も意外だと思ってるよ」

 ついさっき終業式が終わり、俺たちは数日前と同じように帰宅していた。気になる実力テストの結果を話題に、比較的暖かい冬の気候を歩いている。

 湊人はいつも通り優秀な点数を取り、学年順位表に名前を連ねていた。冬休みの追加課題もなければ大番狂わせもない、特に面白味のない結果である。

 対する俺はというと、ものの見事にその学年順位表に滑り込むという初の快挙を成し遂げたのだった。つまり、俺も追加課題なしである。冬休みに休むことが許されたのである。

「本当に自分自身を褒めてやりたいよ」

「思う存分ゲームしてもいいんじゃない?」

 そりゃいいな、と答えてから俺は話を切り出した。

「俺のシャーペンあっただろ、こないだ話したやつ。あれを持つとさ、試験の緊張が消えたんだよ」

「テスト中の話だよね」

「ああ。言葉は聞こえなかった。それでも持った途端に心が落ち着くというか、リラックスできるんだよ。これって何か心当たりあるか?」

 すると湊人はにやにやと楽しげに笑い出した。気味が悪いことこの上ない。

 しかし、聞かないことには話が進まない。仕方なく俺は口を開いた。

「どうした?」

「理想の相手だよ」

「は?」

「だから恭弥にとって理想の相手だよって言ってるの、そのシャープペンシルは」

 急に何を言い出すのだろう、と俺は困惑した。とうとう身長だけでなく頭まで縮んだか。

「だって支えてくれる人がいいんでしょ。試験中に緊張を解してくれるって、支えてくれる以外の何ものでもないでしょ」

「いやでも、芯が強いとかの以前にシャープペンシルには芯がないぞ」

 湊人は肩を竦める。

「それは補充してあげれないいでしょ。ちなみに性別は女性だよ。無機物にも性別ってあるからね。彼女の意見を聞くと、まんざらでもないってさ」

「そりゃ嬉しい限りだけど、ほら、俺は物と話せねぇし」

「百年使えば話せるようになるよ」

 ほらほら、と湊人が肘で突いてくる。条件はクリアしているらしい、たぶん。

 俺は改めて脳裏にシャーペンを思い浮かべて、しっかり考えた上で口を開いた。

「気持ちは嬉しいけど、すまん、さすがに人間で頼むわ」

 俺はまた一つ、物心を知った。